2016年1月12日火曜日

線と色面と私


■ほとんどメモというかこれはもはや読まないでしょう
二値化絵画においては、線も色面 (ベタ塗り)も構造が同じなので、それだったらすべて色面として考えればよく、そのため私の制作の道具は筆になりました。2014年の末のことです。それ以前はペンで描いていたのです。その時は線と色面とは意識の上でちゃんと別物でした。それに非動画的絵画なのだから、もちろん制作においても線が主役だと思っていました。新古典主義的に、形をもってして絵をつくるべきであると。思い返せば具体的色彩がなかったからそう思い込んでいたのかもしれません。さて、【線】はまったく現実には存在しないが絵画の中においては必要な役割があり、一方の【色面】は濃い色および影を表す部分として必要とされる。それを前提として、次の話ですが、濃い色と影との違いを自覚しておきながらそれを結局混同することでいくつかのことが可能となります。そして2014年末頃に、線というのはそういえば幅が細い色面なのだという実体的事実に気づいたとき(二値化という言葉が予めそれを教えてくれていたのに一般的な認識が邪魔をしてそれまで気づいていなかった)、そこで線も色面の仲間に入れ込んでしまおう、そうすれば絵画画面の中で可能なことがより増やせる、つまり先ほど述べた自覚的混同の共犯者を増やすことができる(「二値化絵画がつくるラス・メニーナス」という私のメモがあります。公開する予定はないです)。線と濃い色と影との差は実体的にはないので、内容的には触れ合っていたりまざっていてもその境界がわからずに完了できます。これこそ機能する矛盾です。以前の、わずか10種類も種類がないようなペンの幅に頼る必要はなくなりというかむしろそれでは立ち行かないので、筆によってすべての線も色面と同様輪郭のみをつくって中を塗るという作業に変わりました。これによる変化は、私がコレクションしている二値化の「違反」事例の類ではありません。ここでは二値化の法律を順守しているのにもかかわらず、どのような線であってもその輪郭をつかむことでハードエッジの確定でとらえることができます。ここで私は支持体に向かって制作するときにおいては線を引くことから開放されて線を描くのみになりました、「線」を「描く」ということは事実上線は無いということです。文章が変になってきました。私は潜在的に日本語が苦手なのかなんなのかわかりませんが言語(的論理)の世界が溶けているので、何を言っているかわからないかもしれません、自分でもほとんどまともな言葉に置き換えられていないとは思っていますが、では別の言い方をしましょう。ペンの幅によって線を引くつまり正しく線を引くということによってできる線は、正しければ正しいほど、実は時間性を誘発します。この時間制はいわゆる勢いがあるとかそういう意味ではなく動画的であるというような意味です。正しい線になっていればなっているほど、その線はそのどの部分においても均一であるがためにあらゆる曲がりの可能性を有します。もっというと正しい線になっていればなっているほど、一見は線そのものが確定しているように見えているが、実際には前後の時間を想起させやすくなってしまうのです。これが正しい線ほど動画的になってしまう理由です。それは私の求める非・動画的な絵画のなかでは機能しない矛盾です。矛盾はあってもいいのですがそれにも種類があり、機能しない矛盾ではなく、機能する矛盾を使うようにして、目標に近づかなくてはなりません(※)。
今日、中野の裏路地を歩いていたら、誰かの血がつつっと滴った跡を地面に見つけましたが、それはきちんと確定していました。その血の跡は動くことはありません。私の「描」こうとしている「線」は、これと同じです。

※断っておくと非ハードエッジな線のハードエッジ化という仕事そのものはリキテンスタインがかなりやり終えています。私が積極的に取り組むべきことは、二値化絵画においてそれを駆動させると色面内部における自覚的混同という状況に実は線すらもぶち込める=つまり全ては単にただの塗りであるのだ…ということを用いて、作品がもつ非・動画性をより強化しつつその中での最大限の絵画画面充実を図ることです。

TYM344

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