2023年8月2日水曜日

二値化絵画のストラテジー①

TYM344《ターゲット(アイ)》, キャンバスにアクリル, 100x80.3cm, 2015

 もし現代においても有効な絵画があるとしたら、現代という時代の前提をふまえていないといけないだろう、と思ったことがはじまりだった。そこで自らの絵画についての体験を振り返った時、絵画との交流のはじまりは、絵画本体からではなかった。どういうことか。例えば、ゴッホの作品をあなたは最初にどうやって知ったのだろうか? 小学校の図工の教科書に載っていた、TV番組で紹介されていた、インターネットの記事で観た、なんでもいいが、どれも共通しているのは、そこであなたが観たものは本物ではなくコピーだということである。絵画の実物を実際に目の前にして知ったわけではない。でも、ゴッホの絵を一度も生(なま)で観たことがなくとも、ゴッホを知っている、とか、なんなら、私はゴッホが好きだ、と言っても、全然おかしくない。現代における「知っている」とはそういうものなのだ。本物よりもコピーが先行する世界、そういう場所に我々は住んでいる。でも、コピーというのは元があるから生まれる。つまり、本物と、そのコピーたち、それらがつくる総体が、人に認識されるイメージの本体なのだ。私は、新しい絵画をはじめるにあたり、この前提をまったく無視したり、無いかのように振る舞ったりして、現代における絵画を考えたりつくったりしようというのは、非常におかしいこと、変なことだと思った。ましてや、20世紀にマスメディアが急激に発達し、追って登場したインターネットの普及によってより膨大な量のコピーが生み出されまた目にされるようになった現代においては、"総体"におけるコピーの割合は増々大きくなるばかりなのだから。
 前提が見えてきたところで、ちょっとした、しかし重要な問題が発見された。コピーは劣化するという点だ。誰でも知っていることだが、あるものが紙に印刷されたり、ディスプレイ上にあらわされたりすることで、本物との間にどうしても違いが生じる。色味や濃淡など、本体が持っている情報が変わったり失われたりしてしまうのだ。世界中のディスプレイの色味を調整することは不可能だし、今後どんなに印刷技術やディスプレイの再現度が向上しても、そういった差異は小さくなるにせよ全く無くなることはないだろう。そこで私は、そもそもコントロールできるのはコピー側ではなく本体側のみなのであるから、本体側のイメージのほうが先回りすることによってこの問題を解決できるのではないかと考えた。その考えを具体化するため、絵画をつくるにあたり、色を使わずに白と黒だけで描く、中間色もつかわない、かすれやにじみなどを起こさずハードエッジに描く、といったルールを設けていき、絵画本体が持つ情報をどんどん小さくしていった。そうして行き着いた描き方でつくる絵画を、私は仮に「二値化絵画」と名付けた。二値化とは、コンピュータ上において対象のイメージの彩度や明度をすべて真っ白または真っ黒に振り分けてしまう処理のことだ(英語ではBinarizationと言い、バイナリ、つまり、1か0か、有りか無しか、という意味だ)。「二値化絵画」は、紙やディスプレイのような別のメディアに変換された際に変質したり損失したりするような情報をもともと持っていない。現代におけるイメージの認識の本体は本物とそのコピーたちがつくる総体だと先ほど述べたが、まさしくその総体内の差異が可能な限り小さいまたはほとんどない状態にできるので、総体自体が非常に強固な状態、ブレがない状態になる。
 我々の住む世界、つまり最初の出会いがコピーであることがほとんどである世界において、最初の出会いがコピーであっても最も問題ない絵画、それが「二値化絵画」である。

(②につづく)

TYM344