2020年9月3日木曜日

目的がない看板をつくる


TYM344 Solo Exhibition EYE KNOW EYE LOVE YOU BETTER, THE blank GALLERY, 2020

最近、目的がない看板をつくろうとしています。ふつう看板の目的というのはもちろん、それを見た人がそこに示された商品なりサービスなりを消費することを促すことですが、そのような目的を持っていない看板。イメージを表すだけ、そういう看板です。それはもちろん看板ではないと言えますが、あえて看板と呼ぶのであれば、それはその看板本人だけで完結した看板、つまり純粋看板と言えるでしょう。赤瀬川原平さんたちが提起した超芸術トマソンを語る際にたびたび用いられる純粋ということば(例えば「純粋階段」など)は、それが本来持っている用途や効果を失っており、もはやそれがそれそのものとなっているとしか言えない状況を指していますが、まさしく私がつくろうとしている看板もそのようにして純粋であろうとするものです。ふだん私が看板や標識、はたまたカラーコーンにまで惹かれるのは、なぜかそこに居て良いことになっている(それがとある目的を有するというごく短期的な免罪符を得たがためですが)物理的イメージ、そういうものが存在していること自体が興味深いからです。興味深いというとなにやら神妙ですが、別の言い方をすればそれが私にはあまりにもおかしいくて笑っていまうくらいのことなのです。

少し想像してみてほしいのですが、もし、あなたが1万年前の人間だったりとか、他の動植物だとか、あるいは地球外生命体であるとして、あなたの住む街の外れに佇むあの一本の看板を見たとしたら、まさしくそれは純粋看板としてしか見ることができないでしょう。いったい、これは、なんなんだ?、と。それだけ見てもなんだか絶対わからないんです。違う言い方をすれば、それだけを見ることができる、とも言えるでしょう。これは、私たち(現代の人間)以外にとってはそうなんだね、という話ではなく、実は私たちにとってもそうなんです

そしてさらに秘かにおもしろく同時にとても面倒くさいことに、実に当たり前ですが、純粋というものは実際には起こりえないので(まさに実際につくろうとするせいですね)、そこに新しい問題が勝手にやって来ます。それをまた目的化すると目的ができてしまうので、それはさておき、ともかくまずは純粋であろうとする姿勢とそれにつらなる行動が必要なのです。それがしっかりできると、その次がきちんと始まってきます。

TYM344

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