今月初めはしばらく東京を離れていまして、その間ちょうどチャンスがあり、いくつか出会いがありました。自分にとって、ものをつくる人の先輩というか、師匠のひとりだといえるような人たちの何人かに会うことができました。その人たちの考えは既に自分の中ではすっかり馴染んでいると思っていたけれど、やはり最新の本人たちに会ってみると次々と現在進行形で展開していました。そして、作品と作家がこんなに違うんだなあと思いました。
作品と作家との関係を考えてみます。当たり前ですが、作品とは、その作家の過去のある時点において生み出されたものです。しかし、その作品は、生まれたあとはそこで歩みを止めてしまっているかというとそんなわけではありません。作品は、時代が移り変わっていっても、その作品が生まれたときに背負った「あること」を提示し続けています。それは遺言かもしれないし、予言かもしれないし、場合によっては延々と変化していくかもしれません。いずれにしても、いまこの瞬間も生きている存在なのです。
作品は、生まれたあとは、もう作家とは別の時間の中にいます。そして、このような時間的問題によって、作品を通してみる作家というものはいつだって作品と一致することはありません。
作家の考えの一貫性が作品"たち"の一貫性の原料になるかもしれませんが、しかし、"とある"作品の持ちうる性質は作者のその時のアイディア・瞬発力・偶然などによって練りだされるもので、それらは作者や作品群の一貫性に寄与もするが裏切りもします。
もしその作家がいなかったならば、その作品はこの世にないのですが、しかし作家を作家たらしめているのはひとつひとつの作品たちです。往々にして作家の強烈な思考・活動によってまるで副産物的に作品が湧き出てくるように感じるかもしれませんが、その主従は怪しく、むしろ堂々とした作品たちによって儚く弱々しい作家が歩けていける、本当はそういう場合の方が多いように感じます。
不安(定)はいつも作家の側にあるのです。作品たちに対して自分はちっぽけだなあと思うわけです。
TYM344
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