2018年8月1日水曜日

「絵を描く」というのがどういうものなのか

TYM344 - スコップ (Shovel) / Acrylic on Canvas / 100x80.3cm / 2015

ふつう「絵を描く」というのがどういうものなのか、いまだによくわかっていません。私の描き方は単に私の考えからつくられていて、これはもともと私が音楽家だったのが影響しているのかもしれません。音楽というのは、部分と全体とが関係して構成されていて、非・具象的で、非・意味的で、非・言語的です。音楽は、何かを再現して意味を紡ぐというものには本質にはなりえず、音の集まりやその効果が本質といえるでしょう。私が絵を描こうとするときもそれと似ていて、何を描こうというのは念頭にはなく...いや確かに何を描こうということを念頭におくけれどもそれによって捻出しようとするものはそれではない、そういう感じです。

私は、「これを描くことによってこういうことを言いたい!」だとか、そういうのはありません。もちろん人間ですからその時に言いたいことがあってそれを入れたとしてもそれはあくまで副次的かつ比較的小さい射程のものです(絵にメッセージが入っていたとしても、絵=メッセージというわけではありません)。確かに、あれこれいろんなことを考えて言うのは好きです。いろんなものに興味がありますし、自分が考えている以上それらは否応なくすべてが関係してきます。でも、私が一番優先してつくり出したいのは、それぞれの要素が繋がっていった結果一つの決定的なかたまりになっている状況、一見無関係に際限なく広がっていく・散らばっているものたちにある共通項を見いだして串刺しにしてひとつの確定的な実体にする、そういう存在です

もちろん絵ですから何かを描くわけなので、なにが描いてあるかは説明できますが、しかしそれは絵に描かれたものの説明であって、絵の説明ではありません(絵自体の説明というのはどうも難しいのです。だからなんとかここで書いてみているわけですが)。

というわけで、絵の説明をはじめるとどうしても絵の外の話になってしまいます。外、と言ったのは、あたりまえですが絵に描いてあるものそのものは絵の外からやってきたからです。

作品を観る人は、論理的・言語的に絵に接近するとそこに何が描かれているかを考えますよね、すると意識が目の前の図像から絵の外へと飛んでいく。そうすると、絵そのものは、メッセージや意味を持たなくて済むのです。つまり目指すものに近づくことができるわけです。見る人はそこではじめて絵そのものに対峙できるわけです。わかりますか?

あるいはちょっと違う言い方もできます。何が描かれているか、なぜこれを描いたか、こういうことは人間の言語的論理性で考えられますから、絵の入り口になります。でもあくまで入り口なので、決して本体ではありません。この入り口から中へ入った瞬間、入り口が吹っ飛んでどこかへ行ってしまいます。観る人は、遠巻きではなくてその内部へ入っていって直接「それ」を尋ねられるわけです。

TYM344

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