2016年1月14日木曜日

質問

TYM344 "秘密の質問" (Security Question) [崩壊前]
キャンバスにアクリル 2015

■ブログというのは編集するのは自分だ
とか言ってみてもここで延々と長文を書いていくことで私は多少楽になるから書くのでありそれゆえにとくに編集は必要ないのです。よかった。ここは別に作品じゃないからまったくなにも詰める必要はないんです。さて、たまに聞かれるのですがいい質問なのでここにひとつ書いてみますと、私はモノトーンが「好き」なわけではないです。色に関して好き嫌いでいうと複数の原色がぶつかるようなものが好き。モノトーンというのは私の場合は二値化絵画という様式のよるものであり、じゃあなんでそうなっているのかというのは、ここでは共有しうるように中身を抜いて答えますが、生まれてから今に至るまで変更できない自分(起こったこと)、自分のもつ欲求(起こりうること)やその解析、いま自分がおかれている状況、なぜいまの時代に絵画を選ぶのか、自分の仕事が歴史とどう繋がることができかつどう断絶することができるのか、等々等々等々、そういった場所場所をとおり巡礼(これもまた「行って帰ってくること」)を一度やりきった結果として出る答え、例えばその答えの一つとして二値化があるのであって(二値化以外にもつかっているシステムがあります。またそもそも答えが合っていない可能性も延々にあります、そんな状況でそれをつかってまた出かけなくちゃいけないのですからのんきにはできません)、つまるところ先ず自分以外の人には基本的に関係がないのです、だからこそはじめてつかえるのです。変な言い方だけども当然のことで、他者と関係ないようなものが自分でつくれるからこそ他者に対しての価値がやっと生まれてくる。二値化絵画ということを聞いて不自由そうに感じるかもしれませんが、それは逆で、私にとっては非常に自由なものです。非常に広々とした場所なのです。むしろ好きという感覚のほうがまず簡単に足に絡まって厄介だったりします。「好き」というのは上記で述べたような巡礼のほんの序盤にある何かであって、そのレベルでは危なっかしくて選択できないのです。そんなわけで、モノトーンが好きだからモノトーンということではない。さて、また話が変わりますが、私が自分以外の世界のあらゆる他の誰かの作品を観てなにか考えたりする時は制作とは基本的には動かす部分が異なっていて、他者の作品については、自分がその人であったとしたらこう考えているだろうもしくは自分がその人だったら無意識的にこういう欲望があるであろう、などというものに従ってまず考えたり、美術史は当然例えば音楽史とか戦争史とかなんでもいいんですが他の歴史上にあるものとのアナロジーを探したりしてそれとの比較や違いを用いて考えたりします。とにかく手放しにおもしろいですね。そういう点では美術は手放しにおもしろいと言っていいでしょう。さて、さらにそんなところでなにか発見があったりするとまたおもしろく、そもそも発見というのはもともとの自分の問題との関係で発生する現象でしょうから、制作者としても自分の持っているものと響き合いますので、それはたぶんよいことです、そのよいこととは別に楽なこととかではないですが。

ちなみに二値化絵画というくらいですから、これはもちろん実体的には白い絵の具と黒い絵の具ですが、だからといって白と黒ということではありません。モノトーンってそういうものですよね。この話は今回の話とは違いますからまたいつか。

TYM344

2016年1月12日火曜日

線と色面と私


■ほとんどメモというかこれはもはや読まないでしょう
二値化絵画においては、線も色面 (ベタ塗り)も構造が同じなので、それだったらすべて色面として考えればよく、そのため私の制作の道具は筆になりました。2014年の末のことです。それ以前はペンで描いていたのです。その時は線と色面とは意識の上でちゃんと別物でした。それに非動画的絵画なのだから、もちろん制作においても線が主役だと思っていました。新古典主義的に、形をもってして絵をつくるべきであると。思い返せば具体的色彩がなかったからそう思い込んでいたのかもしれません。さて、【線】はまったく現実には存在しないが絵画の中においては必要な役割があり、一方の【色面】は濃い色および影を表す部分として必要とされる。それを前提として、次の話ですが、濃い色と影との違いを自覚しておきながらそれを結局混同することでいくつかのことが可能となります。そして2014年末頃に、線というのはそういえば幅が細い色面なのだという実体的事実に気づいたとき(二値化という言葉が予めそれを教えてくれていたのに一般的な認識が邪魔をしてそれまで気づいていなかった)、そこで線も色面の仲間に入れ込んでしまおう、そうすれば絵画画面の中で可能なことがより増やせる、つまり先ほど述べた自覚的混同の共犯者を増やすことができる(「二値化絵画がつくるラス・メニーナス」という私のメモがあります。公開する予定はないです)。線と濃い色と影との差は実体的にはないので、内容的には触れ合っていたりまざっていてもその境界がわからずに完了できます。これこそ機能する矛盾です。以前の、わずか10種類も種類がないようなペンの幅に頼る必要はなくなりというかむしろそれでは立ち行かないので、筆によってすべての線も色面と同様輪郭のみをつくって中を塗るという作業に変わりました。これによる変化は、私がコレクションしている二値化の「違反」事例の類ではありません。ここでは二値化の法律を順守しているのにもかかわらず、どのような線であってもその輪郭をつかむことでハードエッジの確定でとらえることができます。ここで私は支持体に向かって制作するときにおいては線を引くことから開放されて線を描くのみになりました、「線」を「描く」ということは事実上線は無いということです。文章が変になってきました。私は潜在的に日本語が苦手なのかなんなのかわかりませんが言語(的論理)の世界が溶けているので、何を言っているかわからないかもしれません、自分でもほとんどまともな言葉に置き換えられていないとは思っていますが、では別の言い方をしましょう。ペンの幅によって線を引くつまり正しく線を引くということによってできる線は、正しければ正しいほど、実は時間性を誘発します。この時間制はいわゆる勢いがあるとかそういう意味ではなく動画的であるというような意味です。正しい線になっていればなっているほど、その線はそのどの部分においても均一であるがためにあらゆる曲がりの可能性を有します。もっというと正しい線になっていればなっているほど、一見は線そのものが確定しているように見えているが、実際には前後の時間を想起させやすくなってしまうのです。これが正しい線ほど動画的になってしまう理由です。それは私の求める非・動画的な絵画のなかでは機能しない矛盾です。矛盾はあってもいいのですがそれにも種類があり、機能しない矛盾ではなく、機能する矛盾を使うようにして、目標に近づかなくてはなりません(※)。
今日、中野の裏路地を歩いていたら、誰かの血がつつっと滴った跡を地面に見つけましたが、それはきちんと確定していました。その血の跡は動くことはありません。私の「描」こうとしている「線」は、これと同じです。

※断っておくと非ハードエッジな線のハードエッジ化という仕事そのものはリキテンスタインがかなりやり終えています。私が積極的に取り組むべきことは、二値化絵画においてそれを駆動させると色面内部における自覚的混同という状況に実は線すらもぶち込める=つまり全ては単にただの塗りであるのだ…ということを用いて、作品がもつ非・動画性をより強化しつつその中での最大限の絵画画面充実を図ることです。

TYM344

2016年1月10日日曜日

2016年です

新年明けましておめでとうございます。
TYM344です。
今年もよろしくお願いします。
しばらく更新をしていませんでしたので久々の投稿です。

■足の指を骨折してさらに携帯をなくしていました
年末年始です。色々できなくなった分、久しぶりにゆっくりしました。

■最近のTYMの会話は大丈夫なのか?
- 会話というのはたいてい言いたいことを言い切れないものだから、いつも言いたいことを言い切っているという人は会話はそんなにしていないのかもしれない (いぬころ@steraum)
久しぶりにブログを書きに来ました。というのも、TYMは最近人と話すときに間髪入れずしゃべり過ぎなのではないかという真っ当な指摘を新井五差路くんからいただきまして、さらにはブログなどを書いていけばいいのではという提案をもらったので、このように早速書いています。実は、今日も新井くんと会う前に、一件打ち合わせがあったのですが、あれこれかなり突っ込んだ話も出来てよかったなあと思う反面、こんこんと私がしゃべりすぎてしまった気がしており、振り返れば振り返るほど反省しています。しかも最悪なことに言い方を変えて何度も同じことを言ってしまっているし、これは会話にはならないので、非常によくない。ちょっと昔はほとんど黙っていたような気がするしとても今のような感じではなかったのですが、気がついたらというかこの半年はしゃべり人間になってしまっていたのです(きっと何者かが私に延々としゃべらせようと操作しているのではないか?そして端的にいうと会話が下手になったという。)。さて、しゃべりすぎるよりブログを書こうということですが、またこうやって文章をつくっているとこれはこれでまとめようとしてしまったりして難しい。なのでだらだらと書きます、書いていって自分をもうちょっと黙らせようと思います。つまり非常に見にくいブログになるはずです。いいんだろうか。でも評論でもステートメントでもなくて、おしゃべりの代わりなのだから、とりあえずこれで行ってみましょう。あれこれ決め事つくって続かないよりも、サスティナビリティが大事です。今後は、ふと、私今しゃべり過ぎているかも?と思ったら、詳しくはブログ見てね、ということで良いんですよね?それで見たらこんなブログという。


■壁画を描くことになった話

Twitterで少し書きましたが、今年は壁画を100枚描くというプロジェクトをスタートします。そういうことにしてしまいましたので、何年かかるのかわかりませんがやります。でも肝心のまだ壁が足りません。ただいま「描かせていただける壁」を募集していますので、うちに描いていいよという方はご連絡ください。何かご質問等でもお気軽にどうぞ。ちなみに壁画というと大きそうだけど、小さい絵でもいいです。壁に一部にでも画が描ければよい。
toyama34shi@gmail.com
純粋に自分の絵画的な問題を考えるための研究なのですが、さてなぜ壁画なのか?キャンバスなどのタブローに描くと絵画が描かれたものとキャンバスとの関係によって成り立ちはじめるのだけれどそのことの無批判な受け入れに対してどこか違和感がでてきて、じゃあそもそもどこまでが絵なのかを考えなければいけなくなり、そのためこの1年くらいはいつもの四角いキャンバス画に加えてスチール板に描いたりリサイクルショップで買ったベンチに絵を描いたりしていました。スチール板やベンチには全面に絵を描いているわけではなく描いているのはその一部です。これは何をしていたかというと、支持体の形の要求を無視して絵を描くという試みです。初期のフランク・ステラのシェイプドキャンバスの場合は、支持体の形状の要求と絵画が持つ要求が合っているものだと思っているのですが、それとは違う解決方法です、というよりむしろ解決させない方法というべきかもしれません。そんなことをあれこれやったり考えたりしてるうちに突如思い当たったのが壁画でした。つまりタブローがなかったころの話に戻っていきます。戻りに戻っていくと、例えばラスコーの洞窟内には牛が描かれている。その描かれた牛の外形の内側は当然「牛」です。さてではその牛の外形の外側は、何でしょうか。それは、洞窟の壁ですね。つまりここでは絵の内側が絵であって絵の外側は絵ではない。この状況こそが本来だったのに、タブローというものができて動産として動き出した絵については、タブローつまりこの動かしうる支持体というものが有する "確実な端っこ"が発生してしまってそれが絵そのものに関係をもつようになってしまった、もっと悪くいえば外形が (例えばたかが数パターンしかない四角いこのキャンバスの外形が)絵に対して文句を言ってくるようになったわけです。絵はそもそも不動産であってこれはジョークでもなんでもなく「動かない」ものだったし、その中では絵は確かに絵であって絵の外とはそれとは違う場所であったのになあということに思い当たったのです。そこで手前は壁画と取っ組み合いをせよということなんですが、じゃあ描きましょう、1枚なんかじゃだめで、100枚くらいは描きましょう、これは直感でそれくらいしないとダメなんじゃないかなあと思ったわけです。さてTwitterに書いてみるとありがたいことに既に何名かうちに描いていいよと言っていただいてて (ありがとうございます)、では実際進めようとするとまた色々面白い問題がでてきて、これは100枚描くべきだろうとますます思ってきたわけですが、まあこの辺りのことはまた次の機会に書きましょう。とにかく引き続き壁を募集中ですのでお気軽にご連絡ください。
*Twitter「TYM344 壁画」で検索
twitter.com/search?q=%20TYM344%20%E5%A3%81%E7%94%BB&src=typd

■さようなら、DESK/okumura
東京は馬喰町にある半廃墟的住宅兼ギャラリーであるDESK/okumuraが地域開発のため建物ごとなくなってしまうということで、この場所での最初で最後の奥村直樹さんご本人による企画があります。

「奥村直樹ノ友達展」
 日時:2016年1月28(木)-30(土)
 場所:DESK/okumura
ki4four.wix.com/deskokumura
友達を集めるといってもはや友達じゃない方も意思表明すれば出展できる状態になっているのでタブーが過ぎる過激な展覧会というか企画ですね。はじめからその成り立ちがクレイジーな奥村宅の「初めてのフィナーレ」にふさわしいのではないでしょうか。それに友達というのは家に呼ぶものでした。私は最初の企画段階から出展をオファーいただいていたこともありいつも以上にはりきって出展しようと思います。ぜひお越しください。

TYM344